【連載】『営業下手が作る 独立するための人脈と仕事』(1)

 僕自身、あとで書くように「営業下手」『営業に向いてない』なのですが、そのなかでもなんとか人脈を拡大し、仕事を作ってきました。

 そのノウハウというか、こうやってきたよというのを、お伝えします。

 

 

いま何をやってるのか

いま僕が何をやっているのか改めてご説明致します。

 

今ぼくは異業種交流会を開催しています。ビジネスのつながりを作るランチ会を開催しています。男女の真面目な出会いをお手伝いする「ROICE会」のお手伝いをしたりしてます。
 これは「お客様と求める人をつなぐ」という使命のためにやってます。

 

 もうひとつ、Webブランド戦略アドバイザーとして、企業さん向けにソーシャルメディア戦略を一緒に考えたり、勉強会をしたりしてます。

 これらは「お客様の特徴得意を見つける」「お客様と求める人との架け橋をつくる」「ブランド認知度を上げる」ためのものです。

 

  本格的にこういうことをやりはじめたのは去年の夏で、それまではパソコンメーカーFRONTIERの営業でした。

 

 代理店網構築をゼロから立ち上げ、その統括をさせていただき、3年ほどで自分で全国に82社と契約、全社あわせて377社からなる代理店網を作りました。

 

 バラバラなことをやってるように見えます。実際、「会社員時代といまは全然違うことをやってるのですね」とよく言われます。

 実は、僕の中ではつながってます。

 社内に代理店制度を提案したのは僕で、ちょうどそのタイミングで本社にもおなじことを考えていた人がいて、社長もおなじ考えを持ってたので、採用に至りました。

 僕が提案した理由は「FRONTIERのブランド認知度をあげること。そのために、ひとからひとにFRONTIERを勧めていただく販売代理店制度が必要」だったから。

 FRONTIERは山口県に本社のあるメーカーで、山口県や、パソコンに詳しい方には、知られてましたが、そうでないかたにはせいぜい「ヤマダ電機で売ってる、どこの国のなのかわからないパソコン」という認知度でした。

 販売代理店制度をつくることで「あの人が勧めるから、いいパソコンなんだろう。じゃあ買おう」と言われる世界をつくりたかったんです。

 

 当時いたパソコンメーカーの製品のブランド認知度をあげるのが販売代理店制度でしたし、

 参加される方のブランド認知度をあげるのが交流会

 インターネットの世界でブランド構築し認知度を上げるのがソーシャルメディア(Facebook)戦略です。

 

 

 いまこうやって曲がりなりにも独立して仕事してますが、実は「営業に向いてない」と言われ続けてきました。

 

 代理店網をどうやってつくってきたか、独立につながる人脈をどうやって作ってきたか、その方法やノウハウをまとめてみました。

OA機器販売で心が折れた

 どれだけ営業に向いてなかったか。まず実際にあったことをひとつ。

 

 33歳のときにはじめて「テレアポ」というのをしました。見知らぬ会社に電話をかけて訪問許可を取るのです。

 扱ってたのはいわゆる「OA機器」でした。商材は、60万円くらいするIP電話機器で、ほしいひとにはリース組ませて売ってました。5年リースで月に12000円くらいだったかな。

 

 最初、その会社には「営業さんに通信の技術や、通信コスト削減の提案方法を教える。また、代わりに提案資料を作る」という立場で入社したんです。

 そのまえにNTTコミュニケーションズへの派遣社員として電話回線の営業をしていて、そのときに技術的な知識をかなり身につけたという経験を買っていただいてたんです。

 ところが営業の成約率が「給料が払えない」ほど低かったんです。

 半分以上のひとが大学出たての新卒だったんです。

 じゃあ自分の方が出来るだろうと思って、「ぼくも営業しますよ」と社長に言って営業担当になったのです。

 

 「電話代を安くするご提案で電話しました」と切り出して電話してました。 これが、朝からかけてもアポイントとれないんです。そのうち心が折れてくるんですね。

 そりゃそうですよね。 自分だったら、知らんヤツから電話かかってきて「コスト削減です」と言われても信用出来ないんで切ってしまいます。 だからだんだん電話かけるペースが落ちてきて、1日でイヤになってしまいました。

 

 今思えば、ちゃんとアポイントの取れるしゃべりかたとか考えたり勉強したりして工夫しなきゃいけなかったとおもうんですが、当時の僕は弱かったなと思います。


 社内にテレアポをとる担当のひとがいて、そのひとたちからアポイントをもらって訪問したのですが、そこにも競争があって、 売れる営業のひとのところにはすぐに契約出来そうなアポイントがまわるんです。 僕の所には「とりあえず話を聞くだけ」のアポイントが回ってきます。 行っても、相手が不在だったり、『そんな話聞きたいんとちゃうから』と追い返されたり。

そんな日々が1ヶ月続いて、社長に「ムリやからやめさせてもらえませんか」と頼みました。

 

 ところがそのときの社長は、僕を辞めさせなかったんですね。そのOA機器販売会社に出資してた「マイクロフォンメーカーの販売会社」に転籍させました。

 

 

(余談)

  「なんで辞めさせなかったんですか」とあとで聞いたら、「会社の経営はヤバいとわかってたからそのまま働かせるのは申し訳ないと思ってたんだけど、あとでこいつは絶対必要になるから、どっかに置いておきたかった」とのこと。

 

 実際、あとで僕は、そのかたのお役に立つことが出来ました。

 OA機器販売会社はその後半年で事業をたたむことになり、新たな事業として、その社長が「情報商材」の販売をすることにしたんですね。

 情報商材っていうのは、いろんなノウハウの詰まった書籍や動画などで、数千円とか数万円とかで売るんです。

 

 ところが「情報商材を売るために、集客はしたいが、Webページ作れないんだよね」とおっしゃるんです。だから、それを作ったり、その会社の中で作れるように雛形になるWebページを作ったりしました。また、自分でも情報商材の販売をしたりで、若干お手伝い出来たました。月に数万円くらいのお小遣いになりました。

 

 「ノウハウの詰まった書籍や動画」と聞くとかっこいいですが、その社長が作ってたのは借金を「返さず自己破産もしない方法」とか、怪しげな投資の話ばかりでした。僕もそれを売ってました。あと、他の人が作った、かなりエロい情報商材を売ったら、販売手数料の収入が月に7万円くらいになったことがありました。

33才になって、何故「はじめてのテレアポ」なのか

 そもそも33才になってなぜ、はじめてのテレアポなのか。ふつう『テレアポがはじめて』なんていうのは高校や大学を卒業したてのひとが言うことです。実は最初は営業職ではなかったんです。

 

 大まかに OA機器販売会社に行き着いたあたりまで書くと 

 学習塾の正社員

 →ニート

 →学習塾内の新事業(インターネットを使った教育)

 →辞めた上司についていって手伝いの仕事

 →派遣社員でNTT系列会社の営業支援

 →33歳でOA機器販売会社の営業

  という経歴です。

 

 なんで営業職になったのか。 新卒じゃなくなると「業務経験者じゃないと雇わない」ところばっかりになるんですよね。ところが、業務経験と言えるほどの長い職歴を積まずに育ってしまったんです。そのため、転職市場において「30歳近くとか30歳過ぎて、未経験でも受け入れてくれる仕事」となると選択肢が「営業」くらいしかなかったからなんです。

 


 ここまでのことも、正しく書こうと思うんですが、非常に長いので、煩わしい人は下記のところは読み飛ばしてください。

 

 

-------------------------------------------------------(読み飛ばし部分 はじまり)


 大学を出たときに就いた仕事は『学習塾の正社員』でした。学生や社会人の講師を管理すること、給与計算すること、自分も授業に出ること、保護者面談をすること、教材を印刷するという雑用もこなすこと、などが仕事でした。

 そこで心と体のバランスを崩したので2年で辞めてしまいました。


 そもそも大学を卒業するのに7年かかりました。卒業したのは教育学部でしたが、入学したのは薬学部でした。サークル活動や塾講師のバイトに一生懸命になった反面、朝起きれなかったり、授業を休むうちに薬学の専門的な内容についていけなかったりしたのです。


 21才くらいのときに、大学を辞めてほかの大学を受験し直そうとしたこともありました。「経営学を勉強しよう』と思いついて。でもバイトが忙しいことを言い訳に受験勉強しなかったんです。で、受験したけど問題文の意味がまったくわかんなくて、試験会場にいづらくなって速攻出たこともありました。


 そのあと、「転学部という道がある」ことを知って、大学の中で転学部の手続きをして、認定され、教育学部に移りました。教育学部に移ったのは、薬学の難しいことを勉強する気力がなくなってたこと、それよりも教育、とくに「ひとのやる気を引き出す方法」に興味が沸いたためでした。


 で、2年勤めた学習塾を辞めるときに、何か手に職をつけておかなきゃいけないなとおもって、60万円払ってグラフィックデザインの学校に半年通いました。25歳、1999年4月から通い始めました。「就職も斡旋します』と営業の人に言われたのでね。

 で、何ヶ月かして就職の相談しにいったら「斡旋はどうのこうの(細かく覚えてませんが)」とごまかされて仕事紹介してもらえないんです。失敗したなと思いました。 で、学校に頼るのはやめて、自分で転職活動しようといろいろなWeb制作会社、デザイン会社に履歴書を送りました。全部断られました。理由を聞いたら「業務経験がないと」でした。実はどこも「経験3年以上」って書いてあったんですけどね。


 今考えるといろいろ甘かったなと思います。薬学に入ったんだったらちゃんと勉強して卒業しなきゃいけないし、大学を受け直すと決めたんだったら本気で受験勉強しなきゃいけないし、就職したら2年で辞めないとか、グラフィックデザインを身につけるとしてもちゃんと就職を斡旋してもらえるところを選ばなあかんだろとか、半年学んだくらいでは雇う方も雇いにくいだろうとか。

 

 


 で、10月くらいに、グラフィックデザインの仕事を探すのは「業務経験がないから」あきらめて、「業務経験がなくても」できる仕事を探しました。そこで見つけたのがケーブルテレビの営業でした。

 

 営業の仕事の面接を受けに行ったはずなんですが、最初は営業じゃなくて、ケーブルテレビの宅内工事の「工事はいつにしましょうか」と尋ねるアンケートをマンション1戸1戸に配布して回収するという仕事にまわされました。営業に向いてないと思われたのでしょうか? 2ヶ月くらいして営業もさせてもらえるようになりましたけど。


 ケーブルテレビの営業は、ふつうの、スポーツ番組やアニメを流すチャンネルと、WOWOWとか、競馬とか、お色気要素のある番組とか流す特別料金のチャンネルがあるんですね。普通のチャンネルの契約を取るのも大事ですが、特別料金のチャンネルの契約を取るとインセンティブがもらえます。ぼくが説明すると契約が結構取れて、部内で1位ではないけど上位になってました。


 あのままいてもよかったのかもしれませんが、元いた学習塾のひとにたまたま何かのことでメールを送ったら「インターネットを使った新しい事業をするから戻っておいでよ」と言われたので そこは4ヶ月で辞めて、元いた会社に入社しました。2000年3月に。給料安かったですけどね。手取りで17万円くらいでしたけど。28歳か29歳でね。


 1年半くらいいたんですけどまた辞めました。社内でその事業を立ち上げた人(I崎さん)は1年くらい前に入社した「転職組」で、社長に注目されてその事業を立ち上げたのですが、その会社に長年いたひとたちからはよく思われなくなったんですね。で、足の引っ張り合いがうっとおしくなって、その立ち上げた(I崎さん)と一緒に会社を出ることにしました。


 で、違う会社に就職したんですけど、その会社では仕事がうまくできなくて、4ヶ月で辞めることに。辞めたあとは、お金をもらって(I崎さん)の仕事を手伝ってましたが、お手伝いに払うお金が惜しくなったようだし、「I崎さんの手伝いじゃなくて、ちゃんと自分で自分の仕事をしよう!」とおもって、また仕事を探すことにしました。 これが2002年5月のこと。31歳になる年です。

 

 人材派遣会社の募集を見てたら、NTTの関連会社で「社内手続きや電話回線開通確認など、営業の支援をする」仕事を見つけました。これの面接を受けたら合格しまして、1年と1ヶ月くらいはそれをやってました。

 

 辞めたきっかけは「正社員じゃないと相手にされないことがある」と思い知ったことです。 そもそもその社内でも「派遣君」とよばれることがあって、人間扱いされてないなとおもってたんですが。

 

 9月にある女性と知り合って、そのまま結婚することになるんですが、親のススメでローン組んで家を買おうとしたらローンの審査がなかなか通らないんですよ。派遣社員なんで。『正社員だったら通るんですが派遣社員ではムリです』と銀行の人に言われました。妻が正社員だったので妻の名義でローン借りましたが、くやしいんで、なんとか正社員になってやろうとおもって、いろんな会社の採用試験受けました。正社員さがすぞと決めたのは2月のことです。


 派遣社員って営業の職歴として認めてもらえなくて、「33歳にして社会人未経験」という扱いをされたみたいで、書類選考すら通らない日々が続いたんですが、6月にある会社の面接に受かって、そのまま7月に就職したのがさきほどのOA機器販売会社です。2004年7月。33歳でした。

 


 ここまで長くなりましたね。


(読み飛ばし部分 終わり)-------------------------------------------------------

その次の会社では「営業禁止命令」

さて、どれだけ『営業に向いてない』ひとだったのか。実際にあった出来事をもうひとつ。


 営業に向いてないとおもって辞めたかったOA機器販売会社の社長に助けられて移った、音響部品メーカーの販社の仕事。

 そこではルート営業をさせてもらってました。決まったお客さんや社長の知り合いのところに訪問するのです。あるとき、社長が僕の営業についてきました

 

 社長がついてくるんで、緊張してたのか、客先で、言葉がしどろもどろだったんですよ。 で、社長がガンガンしゃべり出しました。だから、僕はしゃべらなくていいやとおもって黙ってました。 

 

 で、帰り、営業車の中で、社長にめちゃめちゃ怒られました。

 

「お前はなんでしゃべらへんねん。 お前は営業に向いてない。明日からお客さんのところに行くな」

 
 というわけで営業に出してもらえなくなり、しばらくはウェブサイトの更新をさせられてました。

外勤とは違う角度からの「営業」が出来た。

 でもちゃんと情報を更新してると、インターネットからの注文が増え始めたんです。

 当時、社内に携帯電話がメチャメチャありました。 この会社では携帯電話のハンズフリー機器など周辺機器を作ってまして、その動作確認のために買ってたんです。これを自社で持ってるだけではコストがかかるだけなので、 貸し出してたんです。

 ぼくは新機種が入るたびに会社のWebサイトに『入荷しましたよ』と書いたんです。あと、新機種が入ったタイミングだけでなく、新機種の発表があったら情報を書くようにもしていました。ブログも作って、新機種が入荷したら動作確認のレポートを書いたりもしました。

 

 すると、ホームページを見ましたという問い合わせや注文が入るようになり、そのうち、他の製品よりも利益が出るようになりました。


 そのままいてもよかったんですが、社長から「こいつはパソコン相手の仕事は得意やけど、しゃべられへんから営業に向いてない。あかんやつですわ。」と言われ続けるので、ここでは自分が認められてない、成長出来ないと思い、また転職することにしました。35歳過ぎてました。

人生の「FRONTIER」(開拓地)を見つけた

 人材紹介会社に半年通って、やっと採用されたのが、前にいたパソコンメーカー「FRONTIER」。

 山口県に本社のあるこのメーカーが、大阪営業所立ち上げのメンバーをさがしていた求人に、応募したのです。

 実は半年間、書類選考すら通ることがなかったんです。「35歳の割に営業経験が少ない」とおもわれてたみたいです。ま、実際、そのとおりなんですが。

 

 ところがFRONTIERではいきなり社長面接でした。新大阪駅前の、あるホテルのレストランで面接だったんですが、社長がいきなり「わし飲みたいねん」とビール注文して。 まともな人のはずなんですけどね。元シャープの常務取締役だし、SOTECの社長だったこともあるし。 で、僕もビールを飲んだのがよかったみたいです。 社長さんは、僕の経歴書も見ずに「あんた、おもしろそうや。○○○万円でどうや」と即採用でした。

またしても「営業に向いてない」と言われるという

 FRONTIERに入った2008年8月当時は僕の上に営業所長さんがいて、「関西では顧客ゼロなんだから、顧客が1つでも開拓出来たら褒められるぞ」と言ってくださって、「なんでもやっていい」とおっしゃってくれました。自分でターゲットを決めて飛び込み営業したりテレアポしたりしてました。「パソコンのエンドユーザを作るのは面倒だから代理店作りませんか」と提案したのもこのときです。

 

 10月末に営業所長が突然辞めるんですが、じゃあなおさら、自分の好きなやりかたでやってやればいいとおもって、いろいろな営業ノウハウ本を読みました。そのなかで「異業種交流会」というものの存在をはじめて知りました。37歳のことでした。


 37歳にして、生まれて初めて「異業種交流会」っていうキーワードでgoogle検索して、探し出したのが、すぐ近い日程に開催されてた名刺交換会。会場が尼崎のアルカイックホールでした。ワクワクして、行きました。大阪の本町から、電車を乗り継いで、尼崎。そこにいったら代理店になってくれそうな会社のひとがいる!とおもって。

 で、最初に、「なんだか仕事出来そうなひと」に出会いました。そこそこの会社の社長さんかなとおもって名刺交換しました。たしか「FRONTIERってなんですか」って聞かれて「ええーーーーっと、パソコンの メーカーなんです」と答えたと思います。スパッと答えられなかったのが悪かったのかな?そのひとにいわれました。


「あんた営業なの? 営業に向いてないよ!営業辞めたら??」

 
ここでまさか初対面の人に言われるとは思いませんでした。そのあとのことはおぼえてません。帰りの電車で「どうやったら、営業に向いてると思われるのか」ばかり考えてました。

 

 

そこそこ実績も出来ました。

 営業に向いてないと言われつつ、在籍してた4年間で、営業所内に販売代理店が0だったのを80社に増やしました。

 

 そもそも販売代理店制度というのは僕が提案して、本社の人がちゃんと制度にしてくれたものです。だから僕が入る前は販売代理店がなかったのですが、大阪営業所で代理店が増え始めると「他の営業所にも販売代理店づくりをさせたいから、全国の統括もやりなさい」と言われて、他の営業所に対して、こうやったらアポが取れるとか、こうやったら注文が増えるとか、教えたり、他の営業所から出てきたノウハウをその他に伝えたりしました。 そして4年間で360社くらいの代理店が出来ました。


 どうやって開拓したのか、続きはまた明日以降。